たまには真面目な話しもするんだがや。
Tigerさんの「他人に迷惑を掛けないなんて無理だからやめれ」
を読んで、ちょっと前に考えたコトと、何かが似てるんじゃないかと思った。
わたしの考えたのは、子供の話でもないし、迷惑の話とも違うので、話題は別だけど、本質には似た所があるのかもしれない。
どこのblogだったかもう見つからなくなっているけど、「自分は他人を傷つけないように、イヤな思いをさせないように心がけてblogを書いている」とかなんとか、そんな趣旨のことを書きながら、別の人のblogの記事を批判していた。その批判先のblogの記事は、読んだ人がイヤな思いをする内容なのだそうだ(ちなみにその批判先の記事というのは、芸能活動というか音楽活動というかをしている人のことが書いてあった)。
「他人を傷つけない、他人にイヤな思いをさせない」なんて、無理だし、そうしてると言い張るのは本人の思い上がりでしかない、というのが、わたしが考えたこと。
ある意味セクハラと一緒で、イヤな思いをしたり傷ついたと感じるのは、相手の側であって、自分の判断基準なんて自分の独断でしかない。
結婚した女性に、親戚や近所の人が「お子さんはまだ?」と言うのは、悪気はないし、幸せを祝っていって言う人もいる。だが、言われた側には負担であったり否定したいことであったり、とてもイヤな気持ちになることである場合もある。
中学の頃、先生が授業中に「お母さんがやってなかった? 知らないの?」とかなんとか言った。先生に悪気もないもない。だが言われた生徒には母親はいなかった。
わたしは母の日にイヤな思い出がある。小学生の時の親友は入学前に母親が病死していた。母の日だからカーネーションの花を紙で作ろうという授業。先生は「お母さんのいない人は白いカーネーションですよ」と言った。クラスで彼女ひとりだけが白いカーネーションを作った。親友の気持ちはわからないが、わたしはとてもイヤだった。
背の高い女性に「背が高いですねー」というののどこが悪い、と言うかもしれない。背の高いわたしの友達は子供の頃から背中を丸めて歩くクセがついていた。言われるたび、イヤな思いをしていたと言ったことがある。
ささいな言葉であり、言葉自体は差別でもなければ、人を罵倒する言葉でもない。
バカとかデブとかを使わなければ人をイヤな思いにさせないワケでもない。
「人を傷つけないように気を付けて書いている」と思っている人は、大きな勘違いだ、とわたしは思った。そんなことを宣言したら、何も書けない。
Tigerさんの言う
人が社会の中で生きている限り、迷惑は掛けてしまうものだし、掛けられることも避けられないもので、それをむやみに避けるよりは、「お互い様」という生活の知恵と、掛けた迷惑を上回る貢献で返すように心がけることを教えたいものです。
と近いのだが、社会の中で生きている限り、他人にイヤな思いをさせることは避けることはできない。そういう現実を“知っておくこと”は重要だと思う。
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